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国東市安岐町富清
三浦梅園は、江戸時代の人間と自然の関係を考えた哲学者で、条理学【じょうりがく】という新しい学問を打ち立てました。梅園も住んだ茅葺き【かやぶき】屋根の家屋や梅園の墓が残されています。
中津市本耶馬渓町樋田・曽木
江戸時代に、僧の禅海が工事をはじめ、16年の歳月をかけてトンネルの道をつくりました。菊地寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなり、青の洞門は、全国的に知られるようになりました。
中津市耶馬溪町大字平田
別名白米城【まつたけじょう】と呼ばれる城です。元々は、長岩城を拠点にしていた野仲氏の配下の城でしたが、黒田氏が野仲氏を滅ぼした後に、黒田家家臣栗山利安の居城として改修され、新しい石垣を持った城になりました。
豊後高田市夷
国東半島に広がる天台宗の寺院群を六郷山【ろくごうさん】といいます。夷岩屋は、六郷山の3つのグループのひとつ中山【なかやま】、のちに末山【すえやま】に属しました。夷岩屋【えびすいわや】があった周辺には、現在六所神社【ろくしょじんじゃ】、霊仙寺【れいせんじ】、実相院【じっそういん】があり、このほかに霊仙寺旧墓地など、ゆかりの文化財を見ることができます。
中津市
山国川からわかれる中津川の河口に位置する総石垣の城です。黒田孝高【くろだよしたか】が天正16年(1588年)に築城し、慶長5年(1600)に細川忠興【ほそかわただおき】が大規模に改修したことで、現在に近いの形になりました。その後は、歴代中津藩主居城として使われました。
中津市1903番地 自性寺
中津城下町の外側を囲っていた通称「おかこい山」と呼ばれる大きな土塁【どるい】です。現在は大半が失われましたが、自性寺【じしょうじ】の境内に最も良好な状態の土塁が残っています。
中津市耶馬渓町大字川原口
扇山一帯に広がる山城で、広大な城域と石塁や石積みが特徴です。建久【けんきゅう】9年(1198)に野仲重房によって築城され、22代目に至るまで野仲氏の居城でした。しかし、天正16年(1588)に黒田長政が攻め落とし、野仲氏の滅亡とともに廃城となりました。
中津市本耶馬渓町今行
屋形川の右岸に開口する縄文時代の洞穴遺跡です。発掘調査によって、縄文早期から縄文晩期に至るまでのすべての時期に生活の痕跡が確認できており、縄文時代の遺物や埋葬人骨が大量に出土しました。人類学的にも希少な東九州を代表する遺跡といえます。
豊後高田市西真玉
中世の真玉荘地頭真玉氏の居城です。文和【ぶんな】元年(1352)に木付重実が、前真玉氏の跡をついで入部し、ここを居館にしたと伝わります。平地に大きな堀を廻らした広い平地城館でした。現在は、菩提寺真玉寺【しんぎょくじ】となっています。
宇佐市赤尾
宇佐市西部の上赤尾地区にある標高130mの丘陵上にあります。方形の単郭式山城【たんかくしきやまじろ】で、南北140m東西mほどあります。佐田文書に、天正8年(1580)に存在した「赤尾切寄【あかおきりよせ】」として記されています。
宇佐市南宇佐 宇佐神宮
社叢は、神社の境内の林のことです。宇佐神宮の境内のうち、上宮【じょうぐう】周辺の一帯の森は常緑広葉樹【じょうりょくこうようじゅ】のイチイガシなどが生えています。宇佐神宮の社叢は、原生林に近い状態を維持している場所として貴重です。
玖珠町にある古墳です。石室内部に木の葉や人物が彫られている、装飾古墳です。
宇佐市山下
宇佐市にある古墳群で、現在2基の円墳がみられます。周辺からも方形周溝墓などが見つかっており、当時のこの地域を治めた首長の墓域と考えられます。
宇佐市北宇佐
宇佐市にある古墳で、いまは土が失われて、むきだしの石室がのこっています。大きな石を箱型に組み立てた石室が特徴です。古墳の前をとおる道は、まっすぐ宇佐神宮につながっており、深い関係がありそうです。
玖珠郡九重町田野、後野、町田
飯田高原【はんだこうげん】の北部にある河川に囲まれた深い渓谷で、「十三曲り」と呼ばれる道は、紅葉の名所としても知られています。谷には滝も多くあり、最も奥にある新道の滝は、落差83mと壮大な大きさです。
豊後高田市美和・上屋敷
豊後高田市にある横穴墓群です。横穴の入り口部分に、赤で〇などを描いた装飾をもつ横穴があることや、入り口部分が二段や四段になっている横穴が多いのが特徴です。
中津市耶馬溪町、福岡県
ツクシシャクナゲは樹高4mに達するものもあり、開花時期には淡いピンクの花を咲かせます。経読岳【きょうみだけ】(標高992m)から犬ヶ岳(標高1,130.8m)を経て野峠にいたる両側100mの範囲にシャクナゲが数kmにわたって群生しています。
国東市にある古墳です。今は円墳の形をしていますが、かつては前方部が付いていたとみられます。内部には、二重構造になっている特殊な石のひつぎが置かれていました。