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宇佐市南宇佐2859 宇佐神宮
江戸時代なかばから昭和時代はじめまでの絵図があります。明治時代の神仏分離【しんぶつぶんり】の前は、宇佐神宮はどのような風景だったのか。これらは、そうした宇佐神宮と周辺のうつりかわりを知ることができる絵図群です。
宇佐市大字南宇佐2859 宇佐神宮
能【のう】は、お面をつけて舞う、日本の伝統芸能です。この記録は、寛文8年から昭和19年まで、宇佐神宮で行われた能についての記録です。記録をみると、能は臨時で開かれることがあったことがわかります。この記録は、人々のさまざまな想いをうけて開かれた宇佐神宮の神能の貴重な記録です。
大分市王子西町14番1号 大分県立先哲史料館
陸と海を生活の場として、活躍した岐部氏に関する古文書群【こもんじょぐん】です。岐部氏は、刀や鉄を大友氏におくっていたこともわかります。大友氏と国東半島とのつながりを伝える「歴史の証人」です。
速見郡日出町三ノ丸2663番地 他 日出町
金山王・成清博愛【なりきよ ひろえ】が大正時代に日出町に建てた別荘です。「的山荘」【てきざんそう】ともよばれます。「的山」は鉱山を当てるという意味で、博愛の雅号(文筆家・画家・学者などが、本名以外につける名)に由来します。
由布市湯布院町川西
日野病院は江戸時代から続く医者の家系である日野家の3代目、日野要【かなめ】氏によって明治時代の中ごろに建てられました。本館と病棟からなる洋風の2階建ての建物は、県内で最も古い洋風建築物です。
臼杵市吉小野4296番地 臼杵市文化財管理センター
江戸時代の絵図の一大コレクションです。臼杵藩は、江戸幕府から豊後国【ぶんごのくに】の国絵図作成を命じられたこともあり、その中で、さまざまな絵図を収集しました。これが、多くの絵図が伝わったきっかけのひとつとなりました。
日田市天瀬町五馬市
日田市金凝神社にあるふしぎな仮面です。仮面といっても顔に着けるようなつくりではないので、魔除けとして使われたのではないかと考えられます。
日出町2830 蓮華寺
釈迦【しゃか】が亡くなる時を描いた絵です。古代インドの暦【こよみ】で2月15日の夜、釈迦は、頭を北に向け右脇を下にして、亡くなりました。釈迦の死を涅槃【ねはん】といいます。この涅槃図で、釈迦は赤い衣をきていますが、これは中国の影響をうけたデザインです。
玖珠郡九重町大字粟野
戦国大名大友氏と地域の領主のかかわりを知ることができる古文書群【こもんじょぐん】です。包み紙(包紙【ほうし】)なども残り、文書のかたちや姿が、当時のまま残っていることも貴重です。
大分市大字荷尾杵1161
江戸時代の終わり頃に建築されたとみられる大分市最古の茅葺寄棟造【かやぶきよせむねづくり】の民家です。また、大分県の代表的な直家【すごや】(上から見た形が長方形の平面をしている民家)です。
宇佐市大字下高
土器と聞くと、縄文時代や弥生時代のイメージがありますが、のちの時代までずっと人々のくらしの中で使われてきました。この古文書群【こもんじょぐん】は、宇佐神宮で使われた土器をつくる人々のトップであった土器長【どきちょう】の家に伝わったものです。
大分市八幡987 柞原八幡宮
紺色の紙に金泥で書かれた文字の、きれいなお経です。かつては、神と仏が一体と考えられていました。神仏習合【しんぶつしゅうごう】です。そのため、お宮にお経が伝わっています。お経の終わりに、文和4年(1355)に柞原八幡宮に納められたと記されています。
国東市安岐町富清2507-1 国東市三浦梅園資料館
三浦梅園【みうらばいえん】は大分県で有名な哲学者ですが、その知識は哲学だけでなく、人間のことから宇宙のことまでおよんでいました。遺稿は、江戸時代の「哲人」の足跡を伝えるもので、人々のくらしから宇宙のことまで、さまざまなことを追究した記録です。
縁起は、ものごとの由来・歴史を意味する言葉です。この絵巻は、八幡神【はちまんしん】の歴史そして柞原八幡宮の歴史を絵と詞【ことば】でまとめたものです。
臼杵市野津町老松
宇佐市大字南宇佐2077 大楽寺
武器のようです。密教【みっきょう】で使われる法具【ほうぐ】のひとつです。武器のようですと書きましたが、もともと古代インドの武器でした。真ん中に持つ所があり、両側にとがった部分があるものを金剛杵【こんごうしょ】といい、五鈷杵はその一種です。
宇佐市大字高森字京塚 大分県立歴史博物館
宇佐神宮の建物工事や儀式などのとりまとめをした家に伝わった古文書群【こもんじょぐん】です。いにしえの宇佐神宮の工事や儀式のこと、宇佐神宮の歴史と文化を知る上で、大切な「歴史の証人」です。
杵築市大田永松
杵築市の永松天満宮でまつられていた懸仏です。神仏習合【しんぶつしゅうごう】の考え方を基に、神の本当の姿である仏を銅板にとりつけて、まつられていたものです。