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大分市本神崎
佐賀関半島【さがのせきはんとう】の海岸部にある全長90mあまりの大きな前方後円墳【ぜんぽうこうえんふん】です。 亡くなった人を埋葬【まいそう】する組合式箱形石棺【くみあいしきはこがたせっかん】が2基見つかっており、人骨と鉄製の武器や農工具が見つかっています。ヤマト王権とつながりがあった、豪族の墓と考えられます。
大分市顕徳町・上野丘西・六坊北町
室町時代に豊後国周辺を納めていた大名の大友氏が拠点にしていた都市です。 大友氏の勢力が大きくなるにつれて大きく発展し、キリスト教関連の施設が建てられ、ヨーロッパ・中国・朝鮮・東南アジアから、様々なものが集まりました。
大分市元町
元町の崖に高さ5mのくぼみがあり、その中に3体の仏像が彫られています。 中央にある一番大きな仏様は薬師如来【やくしにょらい】といい、健康を願う人々に信仰されていました。 そのため、元町石仏は別名「岩薬師【いわやくし】」とも呼ばれています。
豊後高田市夷
堂園板碑【どうぞのいたび】・梅の木板碑【うめのきいたび】の2カ所に分かれています。板碑とは板状の石に梵字【ぼんじ】を刻んだものです。ここでは、大きな二つの石に、線で71基の板碑を描いています。南北朝時代(室町時代)の頃に刻まれたと考えられます。
国見町千灯
高さ70cm、幅160cmの石に彫られた阿弥陀来迎図【あみだらいごうず】です。来迎図とは、死ぬ間際の人を阿弥陀が迎えに来る様子を表した絵です。 仏様の光背【こうはい】を彫りくぼめることで、仏が浮き出でるよう見せています。 鎌倉時代から室町時代に作られたもので、国東半島に浄土教信仰が浸透していたことを示します。
大分市宮苑
丸や三角形の文様、人型の線刻【せんこく】と赤い塗料で装飾された横穴式石室【よこあなしきせきしつ】をもつ古墳です。 古墳の土が一部なくなってしまっているため、元々の大きさはわかりませんが、石室の構造から古墳時代の終わり頃につくられた豪華な古墳であったことがわかります。
豊後大野市三重町浅瀬
平安時代に大野川沿いの崖に彫られた仏様です。仏様は5体あり、和歌山県にある紀州熊野権現【きしゅうくまのごんげん】の仏様の分身を、移したものとされています。 細かく作り込まれていることから、彫刻作品としての価値も高いため、美術品として国重要文化財の指定も受けています。
玖珠郡九重町松木
高さ2.3m、幅7mほどの浅い岩窟に不動明王像【ふどうみょうおう】をはじめとする5躯の仏像が彫られています。室町時代中期頃に、地元の石工【いしく】によってつくられたようです。
豊後大野市緒方町久土知
緒方川沿いの丘の岩壁にある穴に、5躯の仏が彫られています。 平安時代の作風を残しつつも、鎌倉時代の豪快で地元独特の作り方をしています。
緒方川沿いの丘の岩壁にある穴に、3躯の仏が彫られています。 高さは1.45mほどで、赤色・黄色・群青色の塗料が塗られています。 緒方宮迫東石仏と同じく、鎌倉時代につくられたと考えられていますが、作風が違うため別の人が彫ったようです。
大分市高瀬
大分市高瀬の岩壁にある穴の中に、5つの仏像が彫られています。 あまり大きくはありませんが、立体的な絵の表現を上手に取り入れているなどの工夫がみられます。いずれの像も色が塗られており、後世に補修されていますが、元々の色彩がよく残っています。 各像ともに、鎌倉時代中期頃につくられたと考えられています。
豊後大野市犬飼町田原
犬飼町の山の中に、「不動堂【ふどうどう】」と呼ばれるお堂があります。その中の岩壁に掘られた穴に、高さ3.76mの不動明王坐像【ふどうみょうおうざぞう】とその他2体の仏像が彫られています。 不動明王とは、仏様を信じる人々を守る仏様のため、この仏像も猛々しい見た目をしております。この仏像は、鎌倉時代後期につくられたと考えられております。
日田市大字内河野
古墳時代後期につくられたお墓です。死んだ人が入る石室には、鳥・人、船、紋様が赤と緑の塗料で描かれています。 石室の石を塗料で装飾した古墳を装飾古墳と呼びますが、穴観音古墳は筑後川沿いの装飾古墳でも、代表的な古墳です。
杵築市大字杵築
江戸時代、国東半島の東側を治めていた杵築藩主の居城の跡です。城の本丸がある台山地区と、その麓にある藩主御殿【はんしゅごてん】が指定されています。江戸時代はじめの「一国一城令」で、台山地区の建物は壊されたため、江戸時代を通して、藩主御殿が杵築藩の拠点となりました。
玖珠郡玖珠町大字森
「角牟礼城跡【つのむれじょうあと】」は、玖珠盆地の角埋山【つのむれやま】という険しい山の上につくられた城です。 元々は室町時代中頃に土を切り盛りしてつくられた城でしたが、全国で石垣を使った城が流行した時期に、石垣をつくりました。
臼杵市野津町大字原
戦国時代に下藤村で暮らしていたキリスト教の信者を埋葬した墓地です。 発掘調査によって、66基のお墓と小さな建物跡、道路跡が見つかりました。 キリスト教は江戸時代に禁止されていたため、この遺跡ほど良好な状態で残っているキリシタン墓地は珍しく、大変貴重な遺跡です。
竹田市会々・久住町大字有氏、豊後大野市緒方町寺原
江戸時代に岡藩(現竹田市周辺)の藩主をしていた中川家のお墓です。 場所は、岡城城下町の碧雲寺【へきうんじ】、城下町の北にある大船山【たいせんざん】、東にある小富士山の3カ所に分かれています。 このうち、碧雲寺は仏教式のお墓ですが、大船山と小富士山の墓は儒教式【じゅきょうしき】のお墓です。
竹田市大字竹田
江戸時代に岡藩主中川家【おかはんしゅなかがわけ】のお城です。標高325mの丘の上に築かれており、周りは川と崖で囲まれています。 明治時代の廃藩置県【はいはんちけん】後に建物は壊されましたが、石垣・櫓【やぐら】跡・門跡がよく残っています。