ホーム » 検索結果
中津市三光下深水
昭和62年(1987)、工事中に蓋をした備前焼【びぜんやき】の大甕【おおがめ】が出土しました。その中には、銅銭55枚に和鏡【わきょう】、鉄小刀、土師器【はじき】の小皿などが入っており、その大甕を埋めた穴から、土師器や鉄斧などが出土しています。 近くには、中世の深水氏に関わる遺跡があり、これら出土品も当時の有力者が埋めたと考えられます。
宇佐市南宇佐2859 宇佐神宮
刃の長さが93.5cmの日本刀です。刀に刻まれた文から、室町時代に南朝の懐良親王【かねよししんのう】が宇佐神宮に奉納した刀であることがわかります。
大分市上野丘2-8-27 金剛宝戒寺
明王は、どのような人でも仏教の教えに導こうとする存在で、怖い表情をしています。金剛宝戒寺【こんごうほうかいじ】の不動明王は、空海【くうかい】(774〜835)が中国から伝えたデザインの像です。
杵築市南杵築1539 妙経寺
毘沙門天は、もとはインドの神で、仏教では北を守る存在。多聞天【たもんてん】ともいいます。 東西南北を守る四天王のひとりですが、日本では毘沙門天単独で信仰をあつめてきました。
杵築市山香町大字内河野
毘沙門天は、もとはインドの神で、仏教では北を守るといわれています。多聞天【たもんてん】ともいいます。像の内側にある銘文【めいぶん】から、この仏が伝わる所と関わりがないお坊さんが願って、つくったことがわかります。
国東市安岐町糸永1339 瑠璃光寺
阿弥陀如来は、はるか西のかなたにある極楽浄土【ごくらくじょうど】に住むといいます。瑠璃光寺【るりこうじ】の像は、右手を体の前にかかげ、左手を下におろしています。この手のかたちは、「大丈夫、心配ない」という意味です。
宇佐市大字高森字京塚 大分県立歴史博物館
江戸時代の殿さまがオーダーしてつくったものです。 江戸時代の別府一帯の温泉や風景、ならわしなどを伝える貴重なビジュアルデータです。
杵築市奈多229 八幡奈多宮
インパクトのあるお面です。 デザインのもとは、はっきりとしません。「陣道」は「鎮道」【ちんどう】の発音が変化したものとみられ、道をきよめて、鎮めるの意味があるといいます。
国東市国東町横手8378 神宮寺
来迎【らいごう】は、命が終わろうとしている人のもとに仏が迎えに来ることです。来迎図は、それを絵にしたもので、阿弥陀如来【あみだにょらい】の来迎図が多くあります。この絵は、十一面観音の来迎を絵にしたもので、あまり例がありません。
この絵は、放牛光林というお坊さんを描いたものです。放牛光林は元(いまの中国)で修行し、日本に戻ってからは京都の建仁寺【けんにんじ】などの住職をしていました。放牛光林が開いたといわれている龍祥寺【りゅうしょうじ】に伝わっていたものです。
国東半島に広がる六郷山【ろくごうさん】のお寺の歴史と文化を知る上で、基本となる古文書群【こもんじょぐん】です。耕地の開発やお寺の行事など、国東半島のいのりとくらしの様子を知ることができます。
豊後高田市黒土1475 無動寺
薬師如来像は、大きな像です。薬師如来は、はるか東の瑠璃光浄土【るりこうじょうど】に住むといいます。病を治すなど、現世利益【げんせりやく】、この世で人々をすくってくれる仏として信仰されました。十二神将は薬師如来のガードマンです。十二神将像は、薬師如来より後に制作された像です。
国東市国見町櫛海1532 万福寺
両手先がありませんが、万福寺では薬師如来【やくしにょらい】と伝えられる像です。薬師如来は、はるか東の瑠璃光浄土【るりこうじょうど】に住むといいます。この像は、彫刻に適さない木を使っていますが、その木で彫らなければならないわけがあったとみられます。
無動寺 【むどうじ】では、弥勒仏【みろくぶつ】と伝えられてきた像です。 弥勒菩薩【みろくぼさつ】は、釈迦が亡くなってから56億7千万年後に、如来となり、この世界に現れ、人々をすくうとされました。弥勒菩薩は、如来となることが約束されているので、如来の姿でも表現されました。すると、お寺の言い伝えも、まんざらではないのかもしれません。
宇佐市南宇佐2077 大楽寺
弥勒菩薩【みろくぼさつ】は、お釈迦様が亡くなってから56億7千万年後に、如来【にょらい】となり、この世界に現れ、人々をすくうとされました。弥勒菩薩は、未来に如来となることが約束されているので、弥勒仏ともよばれ、如来の姿でも表現されました。この像は、そうした弥勒仏の代表的な作です。
無動寺【むどうじ】の本尊です。 明王【みょうおう】は、どのような人でも仏教の教えに導こうとする存在で、怖い表情をしています。なかでも、不動明王【ふどうみょうおう】は怒りと慈悲の仏として、人々に信仰されてきました。
豊後高田市黒土401 応暦寺
明王【みょうおう】は、どのような人でも仏教の教えに導こうとする存在で、怖い表情をしています。なかでも、不動明王【ふどうみょうおう】は怒りと慈悲の仏として、信仰されてきました。応暦寺【おうれきじ】の像は、衣文【えもん】もまり彫られていません。1本の木にまず仏の姿をあらわすことを第一とする考えにもとづいた像といえます。
国東市国見町岐部1806 胎蔵寺
頭から台座まで1本の木でつくられた像です。木への信仰を感じさせる像のひとつです。地蔵菩薩【じぞうぼさつ】は、死後に苦しむ世界にいる人に代わって、苦しみをうけてくれる仏として信仰されました。菩薩のグループにいますが、お坊さんのような姿で表現されます。