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日田市大字夜明3256
行徳家住宅は江戸時代の終わりごろに建てられた、地域の有力者である庄屋の家屋です。行徳家は代々医者の家で、西側には山の景色を取り入れた見事な庭園もあります。
豊後高田市呉崎1646 興隆寺
江戸時代後半、遠浅であった宇佐市や豊後高田市の海岸では、新田開発がすすみました。この記録は、豊後高田市に開かれた呉崎新田のうつりかわりがわかる記録です。
竹田市会々2029 碧雲寺
竹田市碧雲寺に伝わる岡藩主中川家の歴代肖像画です。藩主一人ひとりの特徴がうまく表現されています。
大分市上野丘西23-19 円寿寺
柿本人麻呂【かきのもとのひとまろ】は平安時代に生きた和歌の名人です。鎌倉時代になると、和歌の上達を願って人麻呂の肖像画をまつるようになりました。その時に用いられたものだと考えられます。
国東市国東町横手8378 神宮寺
かつて、わが国では神と仏は一体という神仏習合【しんぶつしゅうごう】の考えがありました。そのなかで、神体【しんたい】である鏡や鏡のようにした板に、神と一体である仏の姿を立体的にして貼り付けたものを懸仏といいます。
大分市牧緑町1-61 大分県立埋蔵文化財センター
玖珠郡玖珠町大字四日市にある四日市遺跡から出土した、平安時代の木棺墓(2基)出土品です。青磁唾壺【だこ】や隅入方鏡【すみいりほうきょう】など、中国製の貴重なものが供えられており、この墓に埋葬された人は、太宰府(福岡県)と関わりの深い人であったと考えられます。
大分市田室町にある東田室遺跡で検出された、古墳時代の竪穴【たてあな】建物跡から出土しました。表面に三角形、四角形、横線、縦線のほかに、龍の鰭【ひれ】のような文様が書かれています。
玖珠郡玖珠町大字岩室
宝篋印塔【ほうきょういんとう】は仏塔の一種で、室町時代の応安7年(1374)の年号が記されています。年号が記され、全ての石材もそろっており、玖珠地方の宝篋印塔として貴重な資料です。
大分市大字志生木1052-2
宝篋印塔【ほうきょういんとう】は仏塔の一種で、かつて「満願寺」という寺院があったと伝えられている場所にあります。室町時代の応安6年(1373)の年号が記されています。
国東市国見町野田
石を板のように薄く加工したものを「板碑」とよびます。てっぺんが三角形で、仏をあらわす種子【しゅじ】が刻まれたり、墨で書かれています。この板碑は、高さ2.22mありますが、幅は30㎝ほどで、細長い姿の板碑です。
日田市上津江町上野田
笠塔婆【かさとうば】とよばれる角柱状や板状の石柱に屋根(笠)や宝珠をのせた石造りの塔です。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るためなどに建てられました。彫られた文字から室町時代(元亀元年(1570))につくられたとされます。
宇佐市大字高森字京塚 大分県立歴史博物館
平安時代の終わりから鎌倉時代の初めに活躍した豊後(大分県)の刀工(職人)「行平」の名前が記された太刀(たち)です。
豊後高田市加礼川623-3 長安寺
長安寺にある国東塔【くにさきとう】で、高さは3.46mです。鎌倉時代の終わりから室町時代初めごろに造られたと考えられています。
竹田市荻町馬場字岩戸、竹田市荻町柏原字岩戸口
荻町(現竹田市荻町)から竹田市に通じる旧道で、岩戸川にかけられた石造のアーチ橋です。江戸時代に作られた時の記録も残っており、貴重な資料です。
由布市挾間町篠原204 慈航寺
慈航寺裏の墓地にあります。高さは1.97mで、相輪が一部欠損しています。現在の慈航寺は臨済宗ですが、寺伝では古くは天台宗であったと伝わります。この宝塔の存在と銘文【めいぶん】の内容は、その寺伝を裏付ける証拠といえます。
竹田市神原 個人
高さ2.5mの重制石幢です。平面は方形で、笠の一部が破損しています。銘文【めいぶん】から、この地域に定住した大神氏と関連したものと考えられます。永正17年(1520)の紀年銘もあります。
大分市本館崎
築山古墳から出土した銅鏡や南海産の貝の腕輪【うでわ】、鉄の矢じりなどの武器、鉄の鎌や銛【もり】などの農工具です。貝の腕輪は女性の人骨にはめられた状態で発見されました。
国東市国見町野田 個人
国東半島一帯には、独特のデザインの石塔があります。「宝塔」という石塔をもとにしたもので、「国東塔」とよばれます。この国東塔は高さは1.68mで、相輪が一部欠損しています。塔身には多数の銘文【めいぶん】が刻まれており、その中に「正平七季(1352)二月十九日」などと記されています。