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臼杵市福良134
九州でも数少ない江戸時代に作られた木造の三重の塔です。設計は、地元臼杵の名工と伝わる高橋団内が行い、弟子の坂本荘右衛門が監督して、建物を完成させました。
中津市本耶馬渓町樋田・曽木
江戸時代に、僧の禅海が工事をはじめ、16年の歳月をかけてトンネルの道をつくりました。菊地寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなり、青の洞門は、全国的に知られるようになりました。
豊後大野市千歳町新殿
五輪塔は、5つのパーツにわかれる塔です。下のパーツから、地輪【ちりん】・水輪【すいりん】・火輪【かりん】・風輪【ふうりん】・空輪【くうりん】といいます。大乗寺境内に並んだ2基の五輪塔のうち、向かって左側は、銘文【めいぶん】から貞和3年(1347)、右側は延文5年(1360)頃につくられたものです。
臼杵市大字深田字古園1936番の2 日吉神社
臼杵磨崖仏【うすきまがいぶつ】の、山王山石仏【さんのうさんせきぶつ】がある上の台地に鎮座する日吉神社境内に立っている一石五輪塔【いっせきごりんとう】です。高さは1.05mで銘文【めいぶん】や梵字【ぼんじ】は刻まれていませんが、作風から平安時代末に作られたようです。
中津市耶馬溪町大字平田
別名白米城【まつたけじょう】と呼ばれる城です。元々は、長岩城を拠点にしていた野仲氏の配下の城でしたが、黒田氏が野仲氏を滅ぼした後に、黒田家家臣栗山利安の居城として改修され、新しい石垣を持った城になりました。
豊後高田市夷
国東半島に広がる天台宗の寺院群を六郷山【ろくごうさん】といいます。夷岩屋は、六郷山の3つのグループのひとつ中山【なかやま】、のちに末山【すえやま】に属しました。夷岩屋【えびすいわや】があった周辺には、現在六所神社【ろくしょじんじゃ】、霊仙寺【れいせんじ】、実相院【じっそういん】があり、このほかに霊仙寺旧墓地など、ゆかりの文化財を見ることができます。
中津市
山国川からわかれる中津川の河口に位置する総石垣の城です。黒田孝高【くろだよしたか】が天正16年(1588年)に築城し、慶長5年(1600)に細川忠興【ほそかわただおき】が大規模に改修したことで、現在に近いの形になりました。その後は、歴代中津藩主居城として使われました。
中津市1903番地 自性寺
中津城下町の外側を囲っていた通称「おかこい山」と呼ばれる大きな土塁【どるい】です。現在は大半が失われましたが、自性寺【じしょうじ】の境内に最も良好な状態の土塁が残っています。
中津市耶馬渓町大字川原口
扇山一帯に広がる山城で、広大な城域と石塁や石積みが特徴です。建久【けんきゅう】9年(1198)に野仲重房によって築城され、22代目に至るまで野仲氏の居城でした。しかし、天正16年(1588)に黒田長政が攻め落とし、野仲氏の滅亡とともに廃城となりました。
豊後高田市臼野 個人
長さ81.6cmで、表に「平鎮教【たいらしずのり】」と銘文があります。この刀工は古刀末期(室町時代末)の永禄【えいろく】年間(1558〜1570)に活躍した平高田一派の優秀な刀工です。
大分市森
長さ68.4cmあり、表に「豊洲高田住藤原行長」裏に「慶長五年2月?日」という銘文があります。この「藤原行長」は「紀行平」という名工の末裔と伝わる刀工です。
国東市国東町岩戸寺1222 岩戸寺
岩戸寺の境内にある高さ2.53mの石幢です。塔身(龕【がん】部)に六地蔵、阿弥陀三尊像【あみださんそんぞう】、閻魔王【えんまおう】が刻まれ、幢身(柱)には僧の豪_【ひでたか】の菩提【ぼだい】と逆修【ぎゃくしゅ】のために文明10年(1478)に造立されたと記されています。
中津市本耶馬渓町今行
屋形川の右岸に開口する縄文時代の洞穴遺跡です。発掘調査によって、縄文早期から縄文晩期に至るまでのすべての時期に生活の痕跡が確認できており、縄文時代の遺物や埋葬人骨が大量に出土しました。人類学的にも希少な東九州を代表する遺跡といえます。
豊後高田市西真玉
中世の真玉荘地頭真玉氏の居城です。文和【ぶんな】元年(1352)に木付重実が、前真玉氏の跡をついで入部し、ここを居館にしたと伝わります。平地に大きな堀を廻らした広い平地城館でした。現在は、菩提寺真玉寺【しんぎょくじ】となっています。
宇佐市赤尾
宇佐市西部の上赤尾地区にある標高130mの丘陵上にあります。方形の単郭式山城【たんかくしきやまじろ】で、南北140m東西mほどあります。佐田文書に、天正8年(1580)に存在した「赤尾切寄【あかおきりよせ】」として記されています。
豊後大野市清川村宇田枝
宝生寺【ほうしょうじ】にいたる道の途中にあります。高さ270cmの重制石幢です。竿のしたの銘文【めいぶん】から、永正13年(1516)に法華経千部の読誦供養【どくしょうくよう】のために六地蔵を建立し、現世安穏後生善処【ぜんせあんのんごしょうぜんしょ】を願ったものであることがわかります。
豊後大野市朝地町池田
豊後大野市大野町との境の山中にある墓地に立っている石幢です。一部破損していますが、龕【がん】部の銘文から、一万田氏にゆかりのある塔であることがわかります。
豊後高田市蕗 富貴寺
富貴寺大堂の前に1基、向かって左側に4基の笠塔婆が並んでいます。銘文によると、広増というお坊さんが極楽往生【ごくらくおうじょう】を願って、仁治2年(1241)から文永5年(1268)の間に建てたものです。