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杵築市奈多229 八幡奈多宮
日本の神は、姿なき存在でした。仏教の影響のもと、神の姿を表現するようになりました。八幡神がお坊さんのような姿をしているのは、奈良時代の終わりころに八幡神は出家し、仏教の道にはいったと考えられたからです。神仏習合【しんぶつしゅうごう】のさきがけといえます。
大分市王子西町14-1 大分県立先哲史料館
臼杵藩主の稲葉家に伝わった古文書群【こもんじょぐん】です。 江戸時代の幕府との殿様のつながり、稲葉家の歴史を知ることができる「江戸時代の武家」の記録です。
宇佐市大字高森字京塚 大分県立歴史博物館
豊前国【ぶぜんのくに】南部(いまの大分県中津市・宇佐市)を拠点とした武士の姿を知ることができます。この古文書群【こもんじょぐん】は、室町時代から戦国の動乱をいきぬいた地域の武士と当時の社会の様子がわかります。豊前国の歴史を知る上でも、基本となる古文書群【こもんじょぐん】です。
速見郡日出町 松屋寺
松屋寺【しょうおくじ】のソテツはもともと豊後府内城に植えられていたもので、日出藩の2代藩主・木下俊治【きのしたとしはる】が松屋寺に持ち帰ったといわれています。江戸時代から日本一のソテツとして名高く、樹齢は600年以上と推定されています。
佐伯市本匠大字小半
全長約700m以上ある鍾乳洞【しょうにゅうどう】です。洞内には天井から多くの鍾乳石【しょうにゅうせき】が垂れ下がり、見事な景観をつくっています。中でも斜めに傾いている斜柱石【しゃちゅうせき】は有名です。(現在、立入禁止です。)
豊後大野市三重町大字内田
豊後大野市の三重中学校の中にある前方後円墳です。大きさは約53mで、墳丘は二段になっています。墳丘は葺石【ふきいし】に覆われており、ハニワが並べられていました。
豊後大野市三重町大字秋葉
豊後大野市に所在する前方後円墳です。もともとの大きさは約52mほどあったと考えられます。出土したハニワの特徴や、古墳の形から、重政古墳とほぼ同時期につくられたと考えられます。
豊後高田市長岩屋、国東市国東町岩戸寺・成仏
国東半島の六郷山【ろくごうさん】に伝わる修正鬼会は、五穀豊穣【ごこくほうじょう】を願う祭礼と、邪鬼を払う祭礼に火祭りが一体になったとされる行事です。修正鬼会の鬼は福を授けるよい鬼で、仏の化身ともいわれます。
弘法大師【こうぼうだいし】へのおもいと聖地・高野山へのあこがれを知ることができます。 豊後国【ぶんごのくに】と高野山とのつながりを伝える古文書群【こもんじょぐん】で、たとえば豊後国守護の大友氏は高野山で亡き人の菩提を弔いました。また、江戸時代以後は、豊後国のさまざまな人々が高野山へおまいりしたことがわかります。
大分市神崎
大分市と別府市との境にある標高628.4mの高崎山にある、日本最大規模のニホンザル群生息地です。
豊後大野市清川町宇田枝
御嶽神楽は、天孫降臨【てんそんこうりん】などの神話を主題にした演目を中心に33演目を伝えていて、主に大分県南部で伝承される同種の神楽の代表的なものです。
中津市大字伊藤田 古要神社
豊前国【ぶぜんのくに】南部(いまの大分県中津市・宇佐市)のうち、宇佐郡元重を拠点とした武士の記録です。戦国の動乱の中、武士はどう生き抜いたのか。戦いのさなかでの武士の姿を伝える古文書群【こもんじょぐん】です。
佐伯市大字長谷 城八幡社
ハナガガシは、九州・四国の一部に分布するブナ科の高木です。人の活動によって影響を受けることなく原生状態に近いこのハナガガシ林は、自生地として大変貴重です。県内では堅田郷八幡社と八坂神社(佐伯市弥生)の2か所だけにあります。
竹田市久住町、玖珠郡九重町
ツツジ科の小低木です。中部地方から北海道の高所に自生し、九州ではくじゅう連山の山頂帯【さんちょうたい】にだけ生えています。5月から6月ごろに淡い紅色を帯びた白色で、つりがね形の花を咲かせ、9月中旬に赤い果実ができます。
玖珠郡玖珠町大字森
江戸時代に、森藩陣屋【もりはんじんや】の北側に作られた庭園です。池や泉からなる庭園や久住連山の展望を活かした庭園があり、変化に富んだ景色を楽しむことができます。
杵築市
杵築城の城下町です。南北の高台に武家屋敷群【ぶけやしきぐん】、間の谷に商人の町が形成された城下町が江戸時代に形成されました。現在も多くの武家屋敷が南北の高台に残されています。
国東市武蔵町吉広
国東市武蔵町にある楽庭八幡社で、毎年6月13日に行われる虫送り祈願のために行われる楽打【がくうち】神事です。南北朝時代の頃に吉弘氏が戦勝と五穀豊饒を願って始めたと伝わっています。