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宇佐市大字南宇佐
荘園【しょうえん】があった時代、室町時代まで番長職【ばんちょうしき】をつとめた家に伝わった古文書群【こもんじょぐん】です。室町時代までの、宇佐神宮の祭礼や行事、あるいは荘園や神宮の運営の様子がわかります。
宇佐市大字南宇佐2197・2199 宇佐市
ドイツのクラウス社製の蒸気機関車です。 大正5年(1916)から昭和40年(1965)まで、当時の国鉄宇佐駅を通って、豊後高田から宇佐神宮まで、鉄道が走っていました。宇佐参宮線です。この機関車は、多くの人々の想いを乗せて、走ったのです。
カモシカはシカという名前がついていますが、シカではなく、ヤギやヒツジと同じウシ科の仲間です。中国地方を除いた本州、四国、九州に生息する日本固有の種です。九州では大分県、宮崎県、熊本県の山地にすんでいます。
宇佐市院内町
オオサンショウウオは「生きた化石」とも呼ばれる世界で最大の有尾目【ゆうびもく】両生類です。日本では、岐阜県以西に生息し、中国地方に多く、九州では宇佐市院内町の南院内地域が唯一の生息地です。
オオサンショウウオは、カエルなどと同じ両生類で、その中でも一番大きい、日本固有の生物です。半分に引きさかれても、死なないほど強いと信じられ、「ハンザキ」や「ハンザケ」とよばれて神社にまつられている地域もあります。
日田市隈2-7-10
日田市田島2丁目184番地 大原八幡宮
鉾(矛)【ほこ】とは、長い柄の先に装着して使われた中国の武器です。この青銅製の矛は、全長82.9mで幅は狭くもなく広くもない中広形銅矛【ちゅうびろがたどうほこ】と呼ばれるものです。武器としてではなく、儀式の道具として使われていました。
宇佐市大字高森字京塚 大分県立歴史博物館
森貝塚【もりかいづか】は、豊後高田市を流れる桂川の左岸にある縄文時代後期の貝塚です。昭和5年に大分県内で初めての学術調査が行われた遺跡で、瀬戸内海沿岸でよく見られる土器などが出土しました。
昭和23年(1948)に、香々地町(いまの豊後高田市香ヶ地)で開墾が行われた時、岬古墳から、革綴短甲【かわとじたんこう】、鹿角装剣【ろっかくそうけん】、短剣などの鉄製品が見つかりました。 特に、革綴短甲は出土することが全国的にも珍しい資料です。出土遺物から、5世紀頃に供えられたようです。
成恒氏【なりつねし】は、いまの中津市三光を拠点とした武士です。その成恒氏が信仰していた瑞雲寺【ずいうんじ】の跡地から出土しました。 銅造誕生釈迦仏立像【たんじょうしゃかぶつりゅうぞう】のほか、独鈷杵【どっこしょ】の仏具や、青磁劃花蓮華文碗【せいじかくかれんげもんわん】等の陶磁器や、短刀、ガラス小玉などがあります。
宇佐市南宇佐2859 宇佐神宮
宇佐地域の古代寺院の一つである弥勒寺【みろくじ】の跡地から発掘されました。これらの瓦の大半は、大宰府鴻臚館【だざいふこうろかん】(福岡県)で使われたものと似た瓦で、一部に法隆寺【ほうりゅうじ】(奈良県)で使われた瓦と同類のものが使われていました。
宇佐市芝原
戈【か】は、長い柄の先に直角に取りつけて使う中国の武器です。日本列島でも、中国から伝わった銅戈【どうか】をまねして石の戈をつくり、儀式の道具として使用していました。この石戈は芝原地区の畑で採集されたものです。
宇佐市下時枝237
鬼瓦【おにがわら】とは、瓦葺き屋根の端などに設置された装飾性のある瓦です。この瓦は国重要文化財「善光寺本堂【ぜんこうじほんどう】」に使われていました。
古代の宇佐に建立【こんりゅう】された虚空蔵寺【こくぞうじ】という寺の跡地で、2基の蔵骨器【ぞうこつき】が見つかりました。 どちらも蓋付きの須恵器【すえき】の壺で、亡くなった人の遺骨を納めていたようです。
大分市牧緑町1-61 大分県立埋蔵文化財センター
国東市安岐町の築山古墳【つきやまこふん】で出土した須恵器【すえき】の壺と器台【きだい】です。 この壺と台が、元々の組み合わせかどうかは不明ですが、同じような組み合わせが宇佐市鶴見古墳【つるみこふん】で見つかっており、6世紀頃のものと考えられます。
日田市大字高瀬
日田市高瀬地区の陣ヶ原台地に、甲冑【かっちゅう】をモデルにした石像と、武装した武人をモデルにした石像があります。 甲冑は福岡県の岩戸山古墳【いわとやまこふん】から移されたという説があり、武人は江戸時代につくられたと考えられます。
中津市大字永添
山国川の右岸の、中津平野を見下ろす台地の北端にあります。この遺跡は、8世紀中頃から10世紀前半の豊前国下毛郡衙【ぶぜんのくにしもげぐんが】の正倉【しょうそう】(倉庫)があったとされる古代官衙【かんが】(役所)遺跡です。非常に残りがよく、古代の役所の様相や変遷がわかります。
大分市大字横尾
横尾貝塚は、乙津川【おとづがわ】の西側にある縄文時代の貝塚です。特に、姫島でとれる黒曜石【こくようせき】のかたまり(石核【せっかく】)や素材(剥片【はくへん】)が大量に出土してます。そのため、石材の流通拠点であったことがわかります。