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宇佐市南宇佐2859
宇佐神宮境内の西側を流れる寄藻川にかかる檜皮葺屋根【ひわだぶきやね】のついた橋で、西参道から境内への入り口に位置しています。橋の飾り(擬宝珠【ぎぼし】)には、江戸時代の年号や当時小倉藩をおさめた細川忠利の名前が記されています。
上宮内部の南正門で、2階建ての門です。天皇が派遣する使者(勅使【ちょくし】)など限られた人だけがくぐることのできる門で、ふだんは開いていません。
4本の柱が立つ門で、この門をくぐると国宝の宇佐神宮本殿の屋根がみえてきます。建物の装飾や彩色など豪華な造りをしています。江戸時代に再建された門です。
高倉は、上宮と下宮の間の林の中にある高床式の倉です。寄棟造【よせむねづくり】、檜皮葺屋根【ひわだぶきやね】の江戸時代に復興された建物です。
国宝の宇佐神宮本殿の第二殿にまつられている比売大神【ひめおおかみ】の脇殿と伝えられています。八幡造【はちまんづくり】の建物です。現在の建物は江戸時代につくり替えられたものです。
国東市国東町大恩寺2432 文殊仙寺
いまのように時計がなかった頃、たいていの場合人々に時刻をしらせるのは、お寺の鐘でした。お寺の鐘は、むずかしい言葉にすると梵鐘です。この梵鐘は、応永4年(1397)に制作されたことがわかります。
宇佐市大字南宇佐2077 大楽寺
いまのように時計がなかった頃、たいていの場合人々に時刻をしらせるのは、お寺の鐘でした。お寺の鐘は、むずかしい言葉にすると梵鐘です。この梵鐘は、永徳2年(1382)に制作されたことがわかります。
大分市八幡987 柞原八幡宮
柞原八幡宮は、豊前国【ぶぜんのくに】の宇佐神宮より分霊【ぶんれい】されたことが社のはじまりといわれています。古くから「豊後国一宮【ぶんごのくにいちのみや】」として信仰をあつめました。
国東市国見町野田
四天王【してんのう】は、仏教で東西南北をみはるガードマンです。この2体の像は、四天王のうちの2体で、持っている物などが後から補われているため、もとの名前ははっきりとしません。
竹田市大字神原 健男霜擬日子神社
竹田市の健男霜擬日子神社に安置されている3躯の神像です。豊後の豪族、緒方氏の伝説にまつわる神像と伝わります。
豊後高田市田染真中2253 真木大堂
仁王は、お寺を守るガードマンで、金剛力士【こんごうりきし】ともいいます。口を開いている(阿形【あぎょう】)像と口をグッと結んでいる(吽形【うんぎょう】)の像の2体で1組です。
豊後高田市鍛治屋町字鍛治屋町566番地1 光巖寺
豊後高田市の光巖寺にある仏像です。からだや衣の表現から、鎌倉時代につくられたとみられます。複雑に折り重なる衣の彫り方に注目です。
宇佐市大字南宇佐2859番地 宇佐神宮
宇佐神宮にある金剛力士像です。像の銘文から、室町時代に、大内氏が宇佐神宮の復興事業を行った際につくられたことがわかりました。
竹田市大字門田
竹田市門田に伝わる、平安時代の仏像です。同所に阿弥陀如来坐像と一緒にまつられています。本来もう一体あり、3体セットだったものと考えられます。
竹田市門田に伝わる、平安時代の仏像です。観音菩薩像と一緒にまつられています。京都の仏師がつくり、もたらされたものと考えられます。
臼杵市野津町大字野津市
明治35年(1902)の国道の開通にあわせて、つくられました。現在、九州にのこる鉄製の桁【けた】をのせた道路用の橋として、最古の橋です。
十王は、亡くなった人が生きているうちに犯した罪をさばき、極楽へいくか地獄へいくかを決める役割をもつといいます。このような十王のうち、閻魔王【えんまおう】がいちばん有名です。
竹田市大字次倉、萩町大字柏原
「白水【はくすい】ダム」とよばれ、現在も約280haの農地をうるおす現役の農業用利水ダムとして重要な役割を担っています。1938(昭和13)年建設。スムーズに水を流すために曲面をうまく利用し、その優れた造形で高い評価を得ています。