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大分市牧緑町1-61 大分県立埋蔵文化財センター
本資料は、中津市三光佐知にある佐知遺跡で検出された墓(17号遺構)から出土しました。中国の青磁碗や太刀、鉄釘、土師器などがあり、埋葬する際に副葬品として供えられました。これらの品々から、鎌倉時代に埋葬された男性の木棺墓【もっかんぼ】であることがわかります。
杵築市山香町大字野原の龍頭遺跡で出土しました。この編袋は、ツルやイヌビワという植物で編んだもので、食べ物を保存しておく貯蔵穴【ちょぞうけつ】に入っていました。出土した状況からイチイガシ(どんぐり)を運んだ後に、捨てられたようです。
大分市のスポーツ公園を建設する際に、一方平Ⅰ遺跡で発掘調査が実施されました。この遺跡から、旧石器時代に使われた様々な種類の石器や剥片【はくへん】、石核【せっかく】などが出土しており、石器を作成した痕跡が非常に良好な状態で見つかりました。
大分市田室町9-16 長福寺
隠元(1592〜1673)は、中国のお坊さんです。インゲンマメは、隠元が日本に伝えたから、この名前がついたといいます。木庵【もくあん】1611〜84)と即非【そくひ】(1616〜71)も中国のお坊さん。隠元は、黄檗宗【おうばくしゅう】の祖となり、木庵と即非を日本へ招きました。写真は、隠元・木庵・即非の順です。
宇佐市大字南宇佐2859 宇佐神宮
御祓会は、いまは夏越の大祓【おおはらい】いい、毎年6月30日に開催されます。 この絵図は、江戸時代の御祓会を描いたもので、平安時代に始まるという御祓会の様子をビジュアルとして知ることができる作品です。
宇佐市南宇佐2859 宇佐神宮
江戸時代なかばから昭和時代はじめまでの絵図があります。明治時代の神仏分離【しんぶつぶんり】の前は、宇佐神宮はどのような風景だったのか。これらは、そうした宇佐神宮と周辺のうつりかわりを知ることができる絵図群です。
能【のう】は、お面をつけて舞う、日本の伝統芸能です。この記録は、寛文8年から昭和19年まで、宇佐神宮で行われた能についての記録です。 記録をみると、能は臨時で開かれることがあったことがわかります。この記録は、人々のさまざまな想いをうけて開かれた宇佐神宮の神能の貴重な記録です。
国東市国見町岐部
陸と海を生活の場として、活躍した岐部氏に関する古文書群【こもんじょぐん】です。岐部氏は、刀や鉄を大友氏におくっていたこともわかります。大友氏と国東半島とのつながりを伝える「歴史の証人」です。
速見郡日出町三ノ丸2663番地 他 日出町
金山王・成清博愛(なりきよ ひろえ)が大正時代に日出町に建てた別荘です。「的山荘」【てきざんそう】ともよばれます。「的山」は鉱山を当てるという意味で、博愛の雅号(文筆家・画家・学者などが、本名以外につける名)に由来します。
由布市湯布院町川西
日野病院は江戸時代から続く医者の家系で、明治時代の中ごろに3代目の日野要【かなめ】氏によって建てられました。 本館と病棟からなる洋風の2階建ての建物は、県内で最も古い洋風建築物です。
臼杵市吉小野4296番地 臼杵市文化財管理センター
江戸時代の絵図の一大コレクションです。臼杵藩は、江戸幕府から豊後国【ぶんごのくに】の国絵図作成を命じられたこともあり、その中で、さまざまな絵図を収集しました。これが、多くの絵図が伝わったきっかけのひとつとなりました。
日田市天瀬町五馬市
日田市金凝神社にあるふしぎな仮面です。仮面といっても顔に着けるようなつくりではないので、魔除けとして使われたのではないかと考えられます。
日出町2830 蓮華寺
釈迦が亡くなる時を描いた絵です。 古代インドの暦【こよみ】で2月15日の夜、釈迦は、頭を北に向け右脇を下にして、亡くなりました。釈迦の死を涅槃【ねはん】といいます。この涅槃図で、釈迦は赤い衣をきていますが、これは中国の影響をうけたデザインです。
玖珠郡九重町大字粟野
戦国大名大友氏と地域の領主のかかわりを知ることができる古文書群【こもんじょぐん】です。包み紙(包紙【ほうし】)なども残り、文書のかたちや姿が、当時のまま残っていることも貴重です。
大分市大字荷尾杵1161番地
江戸時代の終わり頃に建築されたとみられる大分市最古の茅葺寄棟造【かやぶきよせむねづく】りの民家です。また、大分県の代表的な直家【すごや】(上から見た形が長方形の平面をしている民家)です。
宇佐市大字下高
土器と聞くと、縄文時代や弥生時代のイメージがありますが、ずっと人々のくらしの中で使われてきました。。この古文書群【こもんじょぐん】は、宇佐神宮で使われた土器をつくる人々のトップであった土器長【どきちょう】の家に伝わったものです。
大分市八幡987 柞原八幡宮
紺色の紙に金の文字。きれいなお経です。かつては、神と仏が一体と考えられていました。神仏習合【しんぶつしゅうごう】です。そのため、お宮にお経が伝わっています。お経の終わりに、文和4年(1355)に柞原八幡宮に納められたと記されています。
国東市安岐町富清2507-1 国東市三浦梅園資料館
江戸時代の「哲人」の足跡を伝えています。 人々のくらしから宇宙のことまで、さまざまなことを追究した記録です。