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豊後大野市大野町田代
上津八幡社【あげつはちまんしゃ】の4月10日の祭りに奉納される大野系岩戸神楽です。現在の演目は、柴引などの11演目です。
臼杵市大字臼杵
江戸時代から臼杵に伝わる古い泳ぎの方法です。斜横泳の応用で武具や旗をもつものや立泳の応用泳法には弓術などがあります。
臼杵市野津町大字西神野
熊野神社の旧暦7月7日の祭りに、杖踊【つえおどり】・風流【ふりゅう】が奉納されます。江戸時代に、臼杵藩では雨乞いに風流を奨励していたため、旧暦7月7日は雨乞いの日とも考えられます。
九重町大字後野上一七番地の四(九重町歴史資料館)
九重町の釘野千軒遺跡から見つかった、平安時代の鏡です。鏡の裏に草花やおしどりの文様が形作られています。このような鏡が個人のお墓から見つかる事例は珍しく、貴重な発見例となりました。
豊後大野市緒方町軸丸ほか
豊後大野市の緒方地域では、平地が少ないものの、古くから開発が行われ、稲作地帯として発展してきました。阿蘇火山の溶結凝灰岩【ようけつぎょうかいがん】を活かしながら時代ごとに開発をすすめ、文化をはぐくんでいった歴史を伝える景観です。
大分市寿町2番1号 大分県立美術館
いまから400年ほど前、江戸時代に描かれた作品です。季節ごとに娯楽を楽しむ庶民のすがたが描かれています。曲芸・狂言・相撲など、昔の人々の楽しみが詰まった作品です。
豊後大野市朝地町朝地
江戸時代の武士のお墓です。写真奥が並古のお墓、真ん中の石碑をはさんで、手前が並増のお墓です。墓碑の後ろにカマボコ形の石があります。このようなお墓のデザインは、儒教【じゅきょう】の影響をうけたものです。
安政6年(1859)に建てられた武家の屋敷です。臼杵藩における質の高い貴重な武士住宅の遺構で、臼杵藩の武土住宅の特徴をよく残しています。
中津市本耶馬渓町東屋形
国東半島一帯には、独特のデザインの石塔があります。「宝塔」という石塔をもとにしたもので、「国東塔」と呼ばれます。屋成家墓地国東塔は2つあり、1号基の高さは約2mです。銘文により2つとも鎌倉時代につくられたことがわかります。
豊後高田市鼎1351
国東半島一帯には、独特のデザインの石塔があります。「宝塔」という石塔をもとにしたもので、「国東塔」と呼ばれます。この国東塔は台座と相輪にある蓮の形が少し変わっています。高さは3m余りで、室町時代の初期に作られたと考えられています。
豊後高田市田染小崎2085-1 延寿寺
石殿は国東半島一帯のみにあります。屋根の下に、地蔵菩薩等を彫った部分があります。このようなデザインの石造物は、日本の中でも大分県独特のものといえます。この石殿は、銘文【めいぶん】があり、宇佐神宮の荘園【しょうえん】の田染荘【たしぶのしょう】を現地で支配した人物がつくったことがわかります。
佐伯市宇目大字塩見園
宝塔とは、円柱に屋根をのせたデザインで、屋根の上には仏教の塔のジンボルである相輪(そうりん)がたちます。木や金属、石など、さまざまな素材でつくられました。大師庵宝塔は2基あり、並んで立っています。2つはほとんど同じ形で、高さは約2mあります。
豊後大野市三重町内田95
宝篋印塔とは、宝篋印塔陀羅尼(ほうきょいんとうだらに)というお経を納めた塔で、中国の塔の影響から全体的に段が多いデザインとなっています。浄運寺宝篋印塔は浄運寺の裏庭に置かれ、高さは2mあります。基礎4 面には墨や朱が残っています。
豊後大野市三重町小坂
神社などにある石灯籠のようですが、屋根の下に、仏さまを刻んだ部分があり、これが石幢の特徴です。また、屋根は四角形や六角形、円形のものがあり、さまざまなデザインの石幢があります。先端の宝珠【ほうじゅ】の一部は壊れていますが、全体に残りのよい石幢です。
豊後大野市犬飼町黒松
宝塔は、円柱に屋根をのせたデザインで、屋根の上には仏教の塔のジンボルである相輪【そうりん】があります。木や金属、石など、さまざまな素材でつくられました。新飼宝塔は2つあり、1つは高さは約2m、もう1つは約1.7mです。
別府市東山1番地 御嶽権現社
宝塔とは、円柱に屋根をのせたデザインで、屋根の上には仏教の塔のジンボルである相輪(そうりん)がたちます。木や金属、石など、さまざまな素材でつくられました。この塔は、凝灰岩【ぎょうがいがん】でつくられ、屋根や蓮華の表現が細かく、装飾性が豊かな塔です。
豊後大野市大野町中土師
五輪塔とは、5つのパーツにわかれる塔です。それぞれのパーツは、四角形・丸・三角形など、いろいろな形をしています。表五輪塔は、山の中に4基並立している五輪塔です。4基のうち2基は完形で、同じ年月日が彫られています。
杵築市大田沓掛
国東半島一帯には、独特のデザインの石塔があります。「宝塔」という石塔をもとにしたもので、「国東塔」と呼ばれます。花月園国東塔の高さは約2.5mで、石材には角閃安山岩が使われています。銘はありませんが、南北朝時代末か室町時代初期につくられたと考えられます。