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速見郡日出町字二ノ丸2602番1
日出城本丸の北東隅に位置する2階建ての櫓です。禍【わざわい】が入るとされる北東の鬼門に位置するとともに、櫓の北東隅を欠く特異な構造となっています。
杵築市杵築207
江戸時代の終わり頃に杵築藩の重職にあった大原家が居住した屋敷です。主屋【おもや】は杵築藩上級武家の住宅建築を伝える建物として貴重なものです。長屋門も大型の長屋門として貴重な建物です。
豊後大野市三重町久田
神社などにある石灯籠のようですが、屋根の下に、仏さまを刻んだ部分があります。屋根は四角形や六角形、円形のものと、さまざまなデザインがあります。この石幢は、四角形の屋根の下に仏さまを刻んだ龕部【がんぶ】が確認できないものです。
豊後大野市三重町秋葉
石幢は、神社などにある石灯籠のようですが、屋根の下に、仏さまを刻んだ部分があり、屋根は四角形や六角形、円形のものと、さまざまなデザインがあります。この石幢は、笠や竿が四角形のタイプです。笠が丸いものが多い、現在の豊後大野市三重町一帯は、珍しいデザインです。
由布市庄内町西長宝842 蓮城寺
蓮乗寺の境内に並んだ2基の宝塔です。元々大字五ヶ瀬の安養寺跡にあったものを、今の場所に移築しました。年号等は書かれていませんが、向かって右の塔の銘文に書かれた名前と、塔の形から、応安(1368年〜1375年)に造立されたようです。
宇佐市山本
虚空蔵寺1号瓦窯跡は、飛鳥時代に操業した瓦をつくる窯です。瓦の文様から隣接する虚空蔵寺跡で使用した瓦を作っていたと考えられます。
大分市常行
毛利空桑は、江戸時代から明治時代の学者・教育者で、私塾「知新館」(のち知来館)を開きました。空桑の墓碑には「日本国儒者毛利到墓」と記されており、隣には夫人の墓があります。
日田市花月
日田から中津へ向かう道で、交通の難所であった石坂の地に、江戸時代につくられた全長1260mの石畳道です。傾斜【けいしゃ】をゆるやかにするためにたくさんのカーブを作っています。
中津市三光土田・臼木
江戸時代に完成した通水路で、地域の農地に水を供給してきました。使われなくなった間歩と露天堀の部分1kmが史跡に指定されています。
中津市大字福島
犬丸川【いぬまるがわ】の中流にある縄文時代の遺跡【いせき】です。石で組んだ炉【ろ】のある竪穴住居跡【たてあなじゅうきょあと】から縄文土器や石器が出土しています。
中津市大字大貞
薦神社は、応神天皇・比メ大神・神功皇后をまつっている神社です。神社の内宮が三角池です。
大分市今市
豊後鶴崎(大分市鶴崎)と肥後熊本(熊本市)を結ぶ道のうち、大分市今市にある石畳の道です。切石の石畳が幅2.1m、長さ約660mにわたって続いています。
大分市鶴崎
毛利空桑(1797〜1884)は、江戸時代から明治時代にかけて活躍した教育者です。安政4年(1857年)に現在の場所に居宅と塾を移した際に、居宅を「天勝堂【てんしょうどう】」、私塾を「知来館【ちらいかん】」と名付けました。その建物が現在も残っています。
虚空蔵寺跡は、奈良時代前期に創建された古代寺院跡です。塔跡には柱を置いた礎石【そせき】が残されていて、三重塔が建っていたと想定されています。また、出土した瓦などから当時の奈良の都との関係が注目されています。
速見郡日出町日出二ノ丸2594
日出藩は、江戸時代の終わり頃に、藩校「致道館」を建てました。藩校の建物と校門が残されています。江戸時代の藩校の建物としては大分県内で唯一残っている建物です。
大分市下八幡2組 大山寺
大山寺【たいさんじ】に安置される大きな仏像です。像内から発見された木札【きふだ】から、江戸時代に修理が行われたことがわかります。顔や彫り方の技法には、平安時代の仏像の特色がよく表れています。
竹田市荻町柏原
大野川上流の竹田市陽目にある「陽目の里キャンプ場」の上流を中心に、渓流の岩に付着して生育します。全国的にも珍しく、国の絶滅危惧種に指定されています。
豊後大野市大野町安藤 矢形神社
大野町安藤地区にある矢形神社境内にはヒノキが植栽されていますが、イチイガシを代表とする林も残されています。地域の信仰対象として、また、高地にある常緑広葉樹林(落葉しない広葉樹からなる森林。日本では多く、シイ・カシ・タブノキ・クスノキを主体とする。)として貴重です。