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大分市佐賀関3329
早吸日女神社【はやすひめじんじゃ】の総門は、8本の柱で立つ瓦葺き【かわらぶき】の大規模な門です。江戸時代に建てられていて、建築当時の姿をよく残しています。
早吸日女神社は佐賀関地区のシンボルとして親しまれている神社です。本殿は、安土桃山時代に火災にあいましたが、棟札【むなふだ】に記された年号から、江戸時代に再建されたと考えられています。
大分市本神崎864
浄土真宗の寺院で、本堂や山門など江戸時代に建てられた主要な建物が現在も残されています。最も古い建物は、庫裏付玄関【くりつきげんかん】で、江戸時代(18世紀前半)の建物です。
玖珠郡玖珠町森864番地
江戸時代に森藩の藩主が、三島宮の整備の一環として建てた2階建ての「御茶屋」です。東から南側にかけて城下を一望できる開放的な造りが特徴です。
末廣神社の本殿と覆屋【おおいや】は、江戸時代に森藩の主導のもとで建てられました。まず、先に覆屋をつくり、その後が本殿が完成したといいます。
豊後高田市是永町
一連アーチの橋です。アーチの外側には化粧仕上げした輪石として、神橋にふさわしい丁寧な仕上げをしています。柱には、江戸時代の年号が記されています。
杵築市杵築1162 八坂神社
木造の社殿と同様につくられた本格的な石造の社殿で、珍しい資料です。社殿の背面には、江戸時代の年号や作った人物の名前が記されています。
佐伯市大手町1丁目1番1号
佐伯藩主毛利家の居城であった佐伯城三ノ丸入口につくられた櫓門【やぐらもん】で、江戸時代のはじめに建てられた後、2回再建されています。大分県内で現存する城の建物は少ないことから、たいへん貴重な城門です。
豊後大野市犬飼町柴北
大聖寺の境内にある、高さ263㎝の宝篋印塔です。お寺では開山塔と呼ばれており、万寿寺(大分市)を開いた僧侶の弟子の名前が刻まれています。この時期に大野川流域で活躍した玄正【げんしょう】という石工【いしく】が作ったようです。
臼杵市野津町東谷
石幢は神社などにある石灯籠のようですが、屋根の下に、仏さまを刻んだ部分があり、屋根は四角形や六角形、円形のものと、さまざまなデザインがあります。この石幢は、大野川流域に多くある、丸い笠の石幢のひとつです。他の部分も円形や八角形で、全体に丸いプロポーションの石造物です。
別府市野田
5つのパーツにわかれる塔です。下のパーツから、地輪【ちりん】・水輪【すいりん】・火輪【かりん】・風輪【ふうりん】・空輪【くうりん】といいます。それぞれのパーツは、三角形・丸・四角形など、いろいろな形をしています。この五輪塔群は、県史跡の「竈門氏墓地古塔群」【かまどしぼちことうぐん】にあります。別に示した図面は、この五輪塔群のひとつを図にしたものです。
臼杵市野津町宮原
この板碑は、厚さ約40㎝ほどの1枚の岩に、3つの板碑を刻んだものです。各々は線で区切られていて、高さが1.65mです。各々に種子【しゅじ】が彫られており、中央の種子の下に元弘3年(1333)の年号が刻まれています。
豊後高田市梅ノ木
1つの石に2つの板碑を並べて刻んだもので、このような形の板碑を連碑【れんぴ】といいます。種子【しゅじ】と文中3年(1374)の年号などが墨で記されています。
豊後大野市千歳町長峰
丸い笠が印象的です。こうしたデザインの石幢は、大野川流域にみられます。 この石幢は、永禄4年(1561年)に逆修【ぎゃくしゅう】のために建てられた「いのりの遺産」です。
豊後大野市千歳町柴山
大野川流域に多くある、丸い笠の石幢のひとつです。 長い銘文【めいぶん】があり、この石幢が天文2年(1533)に建てられたこと、当時の柴山地区は海部郡に属していたことがわかります。
豊後大野市大野町夏足
石造物の部材をみると、平面の形が方形の石幢で、高さは230cmです。 竿部には種子【しゅじ】と長文の銘文があり、逆修【ぎゃくしゅう】供養のため、六地蔵と閻魔王【えんまおう】を彫ると記されています。
豊後大野市大野町長畑
5つのパーツにわかれる塔です。下のパーツから、地輪【ちりん】・水輪【すいりん】・火輪【かりん】・風輪【ふうりん】・空輪【くうりん】といいます。それぞれのパーツは、三角形・丸・四角形など、いろいろな形をしています。2基の塔とも銘文【めいぶん】があり、正平11年(1356)に生前供養ためにつくられたことがわかります。
豊後大野市大野町中土師
宝篋印陀羅尼【ほうきょういんだらに】というお経を納めた塔で、全体にカクカクしたデザインは、中国でのデザインがもとになっています。3基の宝篋印塔が指定されています。そのうち、1基に貞和2年(1346)の年号があり、年号がわかる大分県内の宝篋印塔の中でも古い塔です。