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国指定等/記念物/史跡

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江戸時代

エリア

国東市

国指定 史跡

みうらばいえんきゅうたく

三浦梅園旧宅

国東市安岐町富清

国指定 史跡

みうらばいえんきゅうたく

三浦梅園旧宅

国東市安岐町富清

三浦梅園は、江戸時代の人間と自然の関係を考えた哲学者で、条理学【じょうりがく】という新しい学問を打ち立てました。梅園も住んだ茅葺き【かやぶき】屋根の家屋や梅園の墓が残されています。

もっとくわしく

三浦梅園は、享保8年(1723)に杵築藩領国東郡富永村の医師の家に生まれました。名は晋、字は安貞、梅園は号、ほかに●山・二子山人などと称しました。はじめに、杵築藩儒であった綾部絅斎【あやべけいさい】に、つづいて中津藩文学藤田敬所【ふじたけいしょ】に学びました。梅園にとって師としたのはこの2人だけで、3回の長崎行きを除けば生涯のほとんどを両子山のふもとで過ごしました。
梅園は、梅園三語といわれる条理学の基本的な著書「玄語」「贅語」「敢語」のほかに、杵築藩主への政治的建策「丙午封事」、経済論を述べた「価原」、詩376首を収録した「梅園詩集」、養生法を説いた「養生訓」などの多方面にわたる多くの著作を残すー方、その名声を慕い、各地から集まった脇蘭室【わきらんしつ】ら多数の門弟への教育も行いました。寛政元年(1789)に没しました。
旧宅は、建築的にみても、豊後のー般の民家に比べて規模も大きく、造作も優れていいます。墓は三浦家歴代のものと一緒に屋敷南方の丘の上にあります。
(●は上半に糸言糸と書き、下半に子と書く漢字で、れん・ふたごの読み方があります。)

  • 指定年月日していねんがっぴ
    昭和34年5月13日、平成18年7月28日追加指定
  • 管理団体かんりだんたい
    国東市